第2章 製茶の歴史 摘帯岳華蒸暁露
<魏晋 葉を摘み茶餅を制作>
三国時代頃になり、お茶の飲み方は、生のままで食べたり煮たり、あるいは、日に晒して干して保存し羹にして飲んだり、野菜として食べたりという形から、餅茶にしてから飲むという形に変わりました。三国時代の魏の張揖の『広雅』によると、摘み取った茶葉を茶餅にし、日光や火で焙じて乾燥、飲む時は砕いた粉末に、お湯を注いで調味料などと調和させ、羹にして飲んでいたとのことです。張揖の『広雅』のこの記載は、茶葉の加工に関する現存する最古の記述です。この時期も茶文化の萌芽の段階です。文献の記載から見ると、漢代以前ないし三国時代に至る茶史の資料が非常に少ないので、どういうやり方でこういう餅茶を製造したのかは確定できません。摘み取った茶葉を蒸青あるいは簡単に煮て、軟らかくしてから餅の形に圧縮し、そのあと、日光や火で焙って乾燥したのかもしれませんが、はっきりとはわかりません。
しかし、東晋と西晋の時代以降、茶文化と、各地の社会生活、その他の文化が互いに融合し影響しあうのに伴い、文人たちは、日増しにお茶を飲むようになります。この時代、『登成都楼』、孫楚の『出歌』などの茶を詠んだ詩歌だけではなく、杜育の『chuan(くさかんむりに舛)賦』のような、専門にお茶を叙述した文学作品も出てきました。文人とお茶の切っても切れない縁は、餅茶の頃に始まったと考えられています。
<唐代の蒸青餅茶>
唐代になって、人々が飲んでいた餅茶はすでに蒸青という方法で加工されたものでした。早い時期の茶餅は、摘み取った茶葉に特別な処理をしたわけではないので、出来た茶餅は濃い草のような味がしたようです。草のような味を取り除くため、実践と研究を繰り返して、蒸青という製茶の方法が生み出されました。陸羽の『茶経・三之造』には、「晴,采之,蒸之,搗之,拍之,穿之,封之,茶之干矣」とあります。晴れた日に、茶葉を摘み取り、甑釜で蒸し、蒸した茶葉を杵と臼で砕き、その後、たたいて団餅にし、最後に、ひとつ一つの茶餅に穴をあけ、焙って乾かし、保存するという意味です。茶餅をたたくときには「規承」というものがあります。「規」は、鉄で作ったもので、形は四角か丸。「承」は、台や砧とも呼ばれます。一般的には石で、また団茶や餅茶の製造方法のことでもあります。こうした加工をすることで、茶葉の生臭い草の味がなくなり、うまみと甘みを増すことができます。陸羽は、様々な蒸青団茶や餅茶を、茶葉の色つやと外観により八種類に分けたうえ、それぞれの優劣を説明しました。
もちろん、唐代の茶葉の主流は団餅茶ですが、一部の地域では、蒸すが砕かない、あるいは、砕いてから、たたかない散茶や末茶がありました。また、一部では炒青茶もありました。
<宋代の龍鳳団茶>
宋代の茶の種類と製茶方法は、唐代と基本的に似たものですが、製法に改善があり、貢茶と闘茶の形が徐々に現れてきます。
団餅茶の緻密な作り方が大きく発展するのは宋の頃です。様々な史料に「茶は、唐代に興り、宋代に盛える」という言い方が見られます。唐代、宋代は古代の茶葉の生産と消費が最も栄えた時代であり、宋代の茶葉生産は唐代に比べ更に進歩していました。全国の年間生産量は約50万担に達します。唐代から宋代に至るまでに、お茶を献上する貢茶の習慣が生まれたことで、茶葉の新しい銘柄も次々に生まれます。宋代の『北苑貢茶録』『東溪試茶録』『品茶要録』『大観茶論』などによると、当時のお茶の品質は、四つのクラスに分けられ、しだいに各種の龍団や鳳餅に進化していきます。製法や技術に十分こだわり、茶葉を摘み取った後、選び抜いて、蒸します。蒸すのは、餅茶の共通のプロセスですが、蒸した後の手順は様々です。あるものは蒸した後、すりつぶして圧縮し、あるものは蒸した後、搾ってから粉にして焙じます。
「龍鳳団茶」は数多くの厳格な手順を基本に精細に作られています。使うのは福建の北苑の茶葉です。製法が精緻で、選ばれる茶葉も素晴らしく、味も、香りも、色もすべて優れた茶となります。欧陽修の『帰田録』によると、茶葉といえば、龍鳳が最も優れ、小団(団茶)と呼ばれます。小団の8枚が約640グラム、その価値は黄金の80グラムに相当すると言われ、さらに黄金は手に入るとしてもお茶が手に入るとは限りません。宋の徽宗・趙佶は『大観茶論』の中で、龍鳳団茶を「名冠天下」と称えています。龍鳳団茶の製造は非常に精細で、採-選-蒸-搾-研-造-過黄、すべての手順に相応しい道具と技術がありました。
お茶を蒸すとき、洗った茶葉を甑(蒸し鍋)にいれ、草のような味を取り除くために蒸します。搾茶といい、前後二回、茶葉の水分を搾り、苦みや渋みを除きます。次に研茶といって、たらいの中で、杵で茶葉をすりつぶします。適量の水を入れ、水がなくなり茶葉が熱くなるまですりつぶします。茶の乾燥と熱はちょうど良くせねばなりません。造茶においては、研いた茶膏を型の中にいれて、圧縮して成形します。型には、方型、花鋳、大龍、小龍などいくつかの種類があります。過黄では、適当な火加減で、型で圧縮し成形された茶を火で6〜15回焙じます。火の強さと焙じる回数は、鋳型の厚さによって決まります。最後に、焙じた団茶を沸騰した湯に通して色を出し、密閉した部屋に置き、扇で急いであおぎ、明るい色の団餅にします。そのまま一夜を経て、次の日、弱い火で焙じます。これを養火といいます。
団餅茶の飲み方は一種の芸術とも称えられ、作るのと同じように複雑なプロセスがあります。現在、お茶を飲むように簡単で便利なものではありませんでした。唐代と宋代の文人には、お茶を好む茶客が多く、強い興味をもって茶道に取り組んでいます。団餅茶を飲むには一揃いの道具が必要で、例えば、火炉を用いて茶を炙り、茶碾で茶を砕き、茶羅で茶を濾し、茶釜でお湯を煎じる、茶碗で茶を淹れるといった具合です。
<元代の蒸青散葉茶>
元代は、おおむね宋代後期の生産様式を踏襲し、主に、散茶と末茶(粉末状のお茶)を作っていました。宋代の散茶と末茶の製造は、まだ単独で完全に整った工程とは言えませんが、団茶とは異なる方向で発展していきます。
元代には、近代の蒸青技術に似た生産工程が現れました。元代の王禎の『農書・巻十・百谷譜』に、当時の蒸青葉茶の製造手順について具体的に書かれています。摘み取った新鮮な茶葉を釜の中で少し蒸してから、筐箔というかごに広げて乾かし、その後、茶葉が湿っているうちに、手で揉捻し、最後に火で焙じて乾燥するという手順です。中国の蒸青緑茶の製造工程は、元代には既に基本的な形があったと言えるでしょう。
散茶は、団餅茶の一つの致命的な弱点を補いました。団餅茶を作るには、蒸青した後、冷水で洗って冷却し緑色を保っていましたが、しかし、これでは、二度水分を搾るので、必然的に茶汁も搾られ、お茶本来の味が奪われ、質が落ちます。散茶の製造では、この手順を省略することで弱点が補われています。
蒸青団茶が蒸青散茶へ変わることで茶葉の元々の香りが保持され、また、蒸青散茶から炒青散茶への転換は、鍋で炒めるときの熱を利用し茶葉の馥郁とした香りを存分に発揮させました。現在、普通に見られる緑茶はこのように古代の製茶技術の改善の結果、宋元明三代の約三、四百年の長い過程で形づくられたのです。
<明代の炒青散葉茶>
明代も製茶技術は大きく発展し、主流は散茶と末茶でした。ただ、貢茶では宋代の制度を踏襲し、お茶を飲むときには煮るという習慣を保っていたので、団餅茶もいぜん相当の割合を占めていました。明代の洪武初期、明朝廷は龍団貢茶を廃し、団餅茶は辺境の馬との取引に使う以外、これ以上生産しないという法令を出しました。そのため散茶だけが特に盛んになり、製茶する時の殺青方法は、蒸青から、炒青に変わりました。明代になって「炒青」製茶法は、唐宋時代の主流である「蒸青」製茶法に取って代わり、徐々に主導的な製茶法になりました。明代の張源の『茶録』、明代の陳師の『茶考』、明代の屠隆の『茶説』、明代の聞龍の『茶箋』などの専門書には、この点について均しく記載があります。
どうすれば茶葉の翡翠のような色を保てるのか、明代には、既に比較的成熟した生産の経験があります。炒青散茶の名茶を求める社会的なニーズは日増しに高まり、炒青茶の製造技術を高める以外、原料である茶葉も新鮮で若いものが求められました。「採茶」に関し、明代の人・羅廩の「茶解」には、茶葉の摘み取りは、晴れた日中に行わなければならず、しかもすぐに加工することも必要で、そうでなければ、色も、香りも、味も落ちると書かれています。摘み取った茶葉は萎れやすいので、磁器や漆器に入れるのではなく、竹筒の容器に入れなければなりません。更に、日光や風に晒してはいけません。炒める時には新しく摘んだ茶葉のうち、育った葉や枝、茎と砕けた屑を除きます。松羅茶のような名茶に至っては、その製造方法には更なるこだわりがあります。例えば、採茶の際、茶の芽しか摘み取らないだけでなく、茶芽を精選するのも不可欠です。よく肥えて茶汁が豊かなものを取り、筋と破片を除き、へたを切り、先端も除いてから、よくやく炒めることができるのです。
炒めるのですから、火加減は、言うまでもなく非常に重要な技術のポイントです。明代の張源は『茶録』に詳しく記述しています。明代の炒青技術の理論は既に系統的で、明代の「炒青茶」が、次第に流行り、徐々に前代の「蒸青茶」に取って代わったことがわかります。こうした変革と明の朝廷の団茶を廃し葉茶を興すという政策には直接的な関係があります。明朝の法令で、散葉茶がこれまで例のないほど、盛んになりました。明代の炒青緑茶が大幅に普及して以降、炒青緑茶の製法も絶え間なく改善され、各地で、数多くの特色を具えた炒青緑茶が生産されました。
散葉茶と緑茶の製茶史は、製茶が簡単から複雑へ(生の葉を煮て羹にして飲む形から団餅茶へ)、また、複雑から簡単へ(散葉茶と緑茶の出現)という過程です。緑茶の出現は、お茶の発展史上もともとの質朴な状態へ戻ったとも言えるのです。
<清代製茶の新たな発展>
清代の製茶技術の発展は急激です。茶葉の種類は、単一な炒青緑散茶から、品質や特徴の異なる緑茶、黄茶、黒茶、白茶、烏龍茶、紅茶、花茶など様々な種類に発展しました。製法にも空前の発展と革新があり、当時、中国には世界でも類を見ないほど高い製茶技術と、豊富な茶葉の種類があったのです。